研究内容について

■ ショウジョウバエ聴覚系の神経解剖学

 私たち人間を含めた多くの動物は、コミュニケーション手段として音を利用しています。コミュニケーションに使われる音の多くは種に固有のパターンを持つため、その伝達が成立するためには、受け取った音の意味を理解する、といった脳での情報処理が必要です。では、脳の中のどのような神経回路の組み合わせがこのような情報処理を担っているのでしょうか。私たちは、神経回路レベルで脳を理解するための優れたモデル動物であるショウジョウバエを利用して、音情報処理を担う聴覚神経細胞の包括的な同定と神経回路地図の作製を行っています。
 ショウジョウバエは求愛する時に、「求愛歌」と呼ばれる種に固有の羽音を奏でます。このような音の情報処理を担う脳の神経機構の理解を目指して、私たちは、ショウジョウバエの聴覚神経回路の網羅的な同定解析を進めています。今までの私たちの研究から、ショウジョウバエの聴覚器から脳へ投射する一次神経細胞が形成する神経回路地図が世界で初めて明らかになりました。また、二次神経細胞が形成する神経回路の構造を調べてみると、私たち哺乳類の聴覚系と類似性を持つことも分かりました。このことは、ショウジョウバエを用いた聴覚研究が、私たち自身の聴覚システムの理解にも貢献しうることを示しています。現在は、これらの神経細胞から情報を受け取る、より高次な神経細胞の体系的な同定を進めることで、ショウジョウバエ聴覚系を構成する全神経回路の全体像の包括的理解を目指しています。

 

■ 神経解剖学を基盤としたシステムニューロバイオロジー

 ショウジョウバエでは、同定した神経細胞の活動を可視化したり、その機能を改変したり、といった様々な操作を可能にする分子遺伝学という実験手法が整備されています。これを利用して私たちは、解剖学的に分類された聴覚神経細胞の体系的な機能解析を行っています。
 現在までに私たちは、ハエの「耳」の中の神経活動をそのまま可視化するといった生理学的な実験方法や、それぞれの細胞群の機能だけを特異的に操作したショウジョウバエを使った行動実験法を開発して、研究を進めてきました。その結果、異なる脳領域に情報を伝える「耳」の感覚細胞群は、音や重力といった異なる刺激の伝達を担うことを発見しました。現在、さらに高次な音情報処理を担う聴覚神経細胞の解析を進めています。私たちはこのように、神経解剖学、神経生理学、神経機能を操作した個体の行動解析などといった、多階層に渡る実験を組み合わせて神経機能を探る、というシステムニューロバイオロジー的な手法を用いることで、音コミュニケーションを可能にする聴覚情報処理システムの動作原理の解明を目指しています。

 

■ 動物の可塑的行動を制御する脳神経分子機構の解明


行動を制御する内分泌因子

 空間的に離れた個々の神経回路の働きを、同時に調節する仕組みとして、内分泌因子(ホルモン)による液性調節が知られています。このホルモンは生物の成長と生命の維持に不可欠な物質であり、生物の個体発生や組織形成において、統合的な遺伝子発現調節を担う非常に重要な因子です。特に、様々な環境刺激に応答して分泌される“ストレスホルモン”は、記憶学習など神経可塑性の調節に強い影響を及ぼすことが知られていますが、その仕組みの理解には至っていません。


非ホ乳類モデル生物を用いた内分泌分子神経生物学

  ストレスホルモンの多くはコルチゾールやエストロゲンを代表とするステロイドホルモンで、記憶学習のみならず、摂食、攻撃、繁殖行動および情動などに影響し、ヒトの精神疾患にも強く関連します。私たち哺乳類動物の脳のような高度に複雑化した器官が研究対象の場合、作用機序解明が困難であろうことは想像に難くありません。昆虫は複雑な行動を、比較的単純な神経系で制御しているため、神経行動学的解析に有利です。モデル生物であるショウジョウバエは、遺伝学解析に優れ、ゲノム・遺伝子情報が豊富、最新の分子遺伝学的手法が適用できるなど、分子神経機構の解明において、分解能の高い解析を可能にします。ショウジョウバエは、内分泌生物学と分子神経生物学を融合させた研究を遂行するうえで、最適なモデル生物です。


昆虫ステロイドホルモン:エクジソンによる行動制御調節機能の解明

  昆虫のステロイドホルモンであるエクジソンは脱皮・変態に必須のホルモンとして、多くの知見が蓄積されています。成熟個体にもエクジソンは存在していますが、その行動神経学的機能の多くは分かっていませんでした。近年、私たちは記憶形成や睡眠・覚醒などの行動制御にエクジソンが関与していることを突き止めました。興味深いことに、成体におけるエクジソンの機能がホ乳類動物の“ストレスホルモン”と類似していることが示唆されました。エクジソンのストレスホルモン様作用における分子機序を、神経応答イメージング技術や、分子神経遺伝学的手法を駆使し、探求したいと思います。既存の学問分野(内分泌、代謝、生理、発生、神経、行動学など)を横断的に総合活用し、将来的にはより高等な動物にも適用可能な基本概念の解明を目標とします。
 

 

■ 行動の進化をもたらす遺伝子と神経回路の変化を特定する

 動物の行動は可塑的であると同時に、ある種や系統群を特徴づけるのに非常に有用な形質のひとつでもあります。進化の過程でしばしば行動変化が形態変化に先んじるように見えることから、行動は、形態と相互作用しながら、ときには形態を先導して、進化してきたと考えられています。近年、進化発生学Evo-devoの発展により、形態進化の分子機構については徐々に理解が深まってきましたが、一方で「新たな行動がいかにして獲得されるのか」や「行動の種特異性はどのように成り立っているのか」に関しては、ほとんど理解が進んでいません。


 動物の行動は複雑な神経回路に制御されており、この形成はさらに複雑な遺伝子ネットワークによって支配されています。もちろん環境入力が個体の行動に及ぼす影響(経験や学習)は無視できませんが、ある種(系統)の行動に一定の傾向が存在している以上、行動の進化は「ある種(系統)の個体の神経回路の変化とそれをもたらすゲノムの変化」として語れるはずです。ゲノム上のある僅かな違いが、ニューロン(群)の構造や性質を変化させ、その変化が神経回路全体の改変をもたらし、種間や個体群間の行動の違いを説明しうるのです。このような行動の進化を具体的に示すには、ある行動の形成に関わる遺伝子や神経回路を種間で比較し、それらの違いが行動形質の違いにどのように影響するのかを知る必要があります。


 キイロショウジョウバエは古くから発生学や遺伝学の材料として用いられてきたが、進化学においても重要な地位を占めています。特に進化発生学において「種特異的な形態形質がいかに形成されるか」の分子機構はキイロショウジョウバエに異種のゲノム配列を導入することで解明されてきました。このアプローチを行動形質の解析に導入すれば「種特異的な行動がいかに獲得されるか」のメカニズムを明らかにすることができます。ショウジョウバエ種群の行動の多様性は古くから知られており、またキイロショウジョウバエではさまざまな行動に関する神経回路や遺伝子の知見が多く蓄積しています。さらに最近では単一ニューロンの可視化や活性/不活性化技術によって、行動に関わる神経回路の高解像度な解析が可能になってきています。そこで、私はキイロショウジョウバエとその近縁種を用い、どのような神経回路とゲノムの変化が新しい行動の獲得を引き起こすのかを理解しようとしています。
 

■ 参考文献    [詳しくは研究業績へ]

【聴覚情報処理システムの動作原理の解明】

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【動物の可塑的行動を制御する脳神経分子機構の解明】

             

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